私と共生

<ふくはまの風 第30号 2017.1.10より>

  現在、私は磐田市中和泉のグループホーム“あしたば”で生活しています。

グループホーム“あしたば”は、この私を含めて5人の利用者が共に生活し自分たちなりの自立を目指しています。

  この私も、日々の中で自分なりのライフスタイルで言葉という心のかたちを伝えるために好奇心の目を育てて、人間として尊厳と共生の在り方を見つめています。

  私が住むグループホーム“あしたば”は、2005年3月「社会福祉法人福浜会」にて設立されました。

  重度脳性麻痺の私は生まれてから40年間、両親と3人暮らしの在宅で過ごしました。

  しかし、30歳を過ぎた頃から私は親亡きあとの自分の居場所について考えるようになり、施設入居がどんなものか体験するために私はショートスティに行き、施設暮らしを間近で観て、やはり施設というものは障害者に対しただの牢獄で人間の権利や尊厳を持たないところであると感じました。

  私は5歳の時から磐田市に住み、両親が亡くなった後も住み慣れた磐田市に居たいという強い思いと、同じ思いを持つ親御さんたちとそして“福浜会”の髙橋和己理事長さんとともに磐田市にグループホーム設立を働きかけ、磐田駅から徒歩3分のところにグループホーム“あしたば”が完成しました。

  障害を持つ子を産み育てる中で世間や親戚からの偏見や差別に耐えながら歳を重ね、障害を持つ子の成長とともに親亡きあとのことを考え、障害が重度であればあるほどそれは切実な問題です。

  私の両親も“あしたば”での私の暮らしぶりを見届けて、きっと安心して天の国へと旅立って逝ったと思います。

  利用者の障害はそれぞれ違いますが、5人共前向きな精神で頑張っています。

  障害を持って生きる中で何が1番幸せであろうかと考えた時、私はやはり生活の基盤の大切さであると思います。

  それは、健常者でも障害者でも同じことで毎日生活する場が安定していれば心が自然と落ち着き健やかな精神が宿ります。

  昔に比べれば今の障害者はノーマライゼーションやバリアフリーの平等化が進み生きやすくなりましたが、しかしまだまだ11人の障害者にあったニーズは日本の福祉の力では望めません。

  そして障害者に対しての偏見や差別も無くなっていないのが現実です。グループホームを設立する段階で住民の人たちから強い反対があり、やむ得ず取り止めになるケースが多くあり、障害者を人間扱いしていない意識が根強くある証拠で、健常者というだけで障害者を社会から疎外した自分たちとは関わりを持ちたくない心がそこにあります。

  人間としてこの世に生まれてくれば、健常者も障害者も与えられる権利も選ぶ権利も同じ筈です。

  健常者という言葉と障害者という言葉がある限り真のノーマライゼーションはないと私は思います。

 “明日は我が身”という言葉があるように、いつ自分たちも病気や事故で障害を背負うかも知れないことを健常者と呼ばれている人たちにも解ってもらいたいのです。

  どんなに重度障害を持つ人でも住み慣れた地域の中で自分らしい生き方で生活できる場がもっともっと自然に増えてゆくことを、“あしたば”の生活の中で深く願うのです。

  私の当時の養護学校時代の尊敬する竹本路可校長先生の話された言葉の中で、「人は皆、何等かのかたちで、障害を持ってこの世に生まれて来るんだよ。もし自分だけは障害がひとつもないと思っている人がいれば、その人こそが本当の障害者だと僕はそう思う。」と穏やかな口調で話された竹本校長先生の瞳には暖か

な力強さが光っていたことを今でも私は忘れられません。

  神から与えられた私たち人間の生命は11人平等であり、また11人の存在価値も同じなのです。

  ノーマライゼーションの意味が日本にも段々浸透してゆく中で、健常者も障害者もなく人間11人の生き方が重視され差別や偏見自体が無くなる真の共生の世の中が来ることを私は信じています。

 

                                            岡本雅子